「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」Ⅱコリント12:9

み言葉の言う「弱さ」と、この世の言う「弱さ」は別ものだ。前者は、自分の限界を知り、認めている事であり、後者は、強さが善であり、弱さは悪という価値観だ。能力があり、力のある事が善で、無力は悪だ。この世は比較の世界なので、人は比較の中で生きている。

 

人より仕事が、勉強が、運動ができない、迅速に処理できない、対人関係がうまくできない、そんな弱さは悪だ。競争社会ゆえ、それなら負け組になる。そんな価値観の影響を受けると、できない、だめな自分、人の持つ幸せを持たない自分、人より劣る自分は敗北者となる。劣等感のとりこだ。そんな自分を受け入れられず、認める事などとてもできない。だから人も認められない。

 

自分の弱さが悪であり、人に受け入れてもらえないと思う。そのため人に弱さを隠す事になる。惨めなので決して知られたくない。競争社会なので、弱さを見せると負けになる。尊敬を失い、自分の価値が下がる、だから見せられない。自分で自分を縛り、窮屈にし、がんじがらめにしている。

 

しかし、御霊の世界は全く違う。神の力は「弱さ」の内にこそ、完全に現されると。神の愛や、力や、恵み、神の支えや、助け、それらを弱さの中でのみ体験する。頭でなく身をもって知る。自分の弱さを認める時、御霊の自由の中に入れられ、解放される。弱さは恥でなく、誇るべきものだと言っている。そこに神の力が現れ、そこで神を深く知って行くのだから。

 

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この世の価値観と正反対だ。この世では弱さは恥ずべき、みじめなもの、知られたくない隠しておきたいものだ。しかし弱さにこそ、主の力が完全に現れると。弱さを否定するのでなく認めて、主に持って行こう。主の愛があるから認める事ができる。何という恵みだろう。