「それは肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」ローマ8:4

肉の思いとは、どんなものだろう。自己中心的な考え、ネガティブな考え、様々な肉の欲望だとは想像がつく。しかし、もし礼拝に忠実に出席し、熱心に奉仕をしていたとしても、自分が良く見られ、信仰深く見られるため、自分の誉れ、自分の栄光のためなら、肉的なことだ。

 

又、御霊に属することとは、御霊からくる思いであり、信仰的、創造的、肯定的であり、そこには喜びと平安がある。主への愛があり感謝がある。私たちは自分の思いを、コントロールすることは、なかなか困難だ。思いはしょっ中、乱れてさまよう。人からの一言で、動揺し、心は騒ぎ、落ち込み、暗たんとしてしまう。

 

どうすれば良いのか。御霊に自分の心を支配していただくことだ。その時、御霊が正しく導いて下さる。信仰生活が喜びであり、幸福感をもって歩む人々がいる。又、そうでなく愚痴と不満、批判や非難で一杯の人々もいる。どこが違うのだろう。いつも喜びのある人は、喜びに目を向け、その事をひたすら考えている人であり、愚痴だらけの人は、愚痴に常に目を向けている人だ。環境は関係がない。環境が原因ではない。

 

その人が思いをどこにつけるかだ。いつも恵みを数え感謝している人は、幸せだ。何に目を留め、何を考えているかで、生き方が決まる。「現在の状況は難しいが、主は必ず良くして下さる、信じていよう」これは御霊による思いだ。御霊の方を選択して、従う事が、御霊に従って歩む事だ。肉の思いと御霊の思い、いつも二つの思いが目の前にある。どちらの思いを選択して生きているだろう。

 

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古い性質は、どこまでも自己中心だ。しかし信仰者には新しい性質が与えられている。それは今まで無かった性質だ。主に喜ばれたい、主に従いたいと願い、主の栄光を喜ぶ。自分を捨てて、御霊の導きの方に意志を向けて選択して行く時、後ろに結果がついてくる。祈ろう。