「あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください」詩篇119:156

人の歩みは主が決め、定めておられる。例えば、大会の競技試合や、又、入試や入社試験は、誰しもどんなに緊張するだろう。普段に、これ以上出来ないほどの準備を重ねても、必ず結果が出るとは限らない。当日突然、発熱や腹痛で体調を崩すことも、実際にある事だ。

 

最善の備えをしても、当日の心身の調子や 又、不測の事態があるかも知れない。当日、緊張の余り、力が入ってしまいミスをし、実力が十分発揮出来ないスポーツ選手も少なくない。練習量や、精神力だけではどうにもならない事態を目の当たりにする。思いもよらない事が起きて、自分の人生なのだが、自分の思い通りには行かない事を思い知らされる。

 

神が主権者なのであって、自分ではないことを見せられる。人間の力の及ばない領域があり、まさに自分の人生を導く方がおられる事実を認めざるを得ない。だが、その方は恐怖政治の独裁者ではなく、愛と慈しみに満ちたお方であり、最善以下は決してされないお方だ。試練も訓練も鍛錬も通るが、「あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするため」と幸せへと導かれる。

 

そして願いを聞いて下さる。「願い」を抑え込むのでなく、主に知って頂けと言われる。なんと嬉しい事だろう。その願いが自分の思い通りにならなくとも、更に良いものへと導かれる。だから主権者である主にお委ねすることができる。そこに平安が臨み、どんな時も平安に生きる事ができる。

 

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主が完全に善い方である事、最善以下はされない事を据えて、信じて行く時に、心は守られる。自分が思う最善と主が私たちのために思われる最善が、しばしばかなり違う。そこで迷い出てしまうので、思いとは違うが、自分の思いで測れない、主の思われる良いものと心していよう。そこに信仰が求められる。