「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」ルカ23:34

ある働き人が、若い神学生時代に、友人の学生たちとの間にトラブルが起きて、言い争いになった。喧嘩ごしになってしまい、険悪になり口もきかない状態になってしまった。互いが皆、自分は正しいと思っている。自分自身も怒りが沸き、腹が立って仕方がない。

 

敵対心や赦せない思いで、悶々となり、自分は間違っていない。自分は正しい。相手が間違っている。自分は傷つけられた。その思いで一杯で、怒りは収まらなかった。数日後、メッセージ当番が回って来た。こんな苦々しい思いの状態で、メッセージの準備など出来るはずもない。

 

しかし赦せない。段々、せっぱ詰まってきて、悶々だ。とうとうどうしようもなく、祈ろうと主の御前に出た。ハンナのごとく、苦しい思い、いら立ち、怒り、敵対心・・ことごとくありのまま告げた。心を吐き出し、じっと主の御前にいた。長い時間が過ぎたが、その時に、主の十字架が自らの前に、くっきりと浮かんだ。

 

罪の無い主が、黙って罪を負っておられる。自分は、相手の事など考えもできず、主も、御言葉もすっ飛んで、ただ「自分」「自分」「自分」。自己主張に、自己憐憫、自己正当化、自分の気持ち。自分しか無い。十字架の主に涙が溢れ、心から悔い改めた。悶々がきれいに消えて平安になった。

 

仲間たちに謝った。すると相手も謝ってくれて、和解ができた。何をしているのかわからず、道をそれる時にも、主は正しく導き返して下さる。悶々状態の時には、十字架の主のもとへ行こう。

 

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苦しい胸のうちを主に訴えると、そこから次の段階へ必ず進める。すぐに自分しか見えなくなる者だが、主の平安を求め、最後は自分自身を変えてくださいの祈りへ向かいたい。