「・・神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです」Ⅰテサロニケ2:13

聖書を読む時、どうだろう。「愛している」「慈しみ深い」「あわれみは尽きない」「高価で尊い」「赦されている」「罰しない」そんな御言葉は、非常に心地良くて大好きだが、弱さ、醜さ、罪を指摘されたり、矯正されたり、悔い改めよとの御言葉は、痛くて避けてしまうだろうか。つい耳をふさいでしまう。

 

だが心地良い言葉、自分に都合の良い言葉だけを求めるなら、成長する事は出来ない。いつまでも幼子のままだ。私たちの成長は、神の言葉にかかっている。御言葉が気持ち良く、感動的だからでなく、都合良かろうが、悪かろうが、正面から受け止めて行くところにある。神の言葉によって内側が変えられて行く。

 

人間の言葉でなく、神の言葉として厳粛に受け止めて行く時、心が変えられ、そして必ず生活が変えられて行く。神の言葉は、種そのものだ。心に素直に受け入れられると、発芽し、花が咲き、実がなる。しかし決してオートマティックではない。種を素直にしっかりと受け入れる、受け入れ側、土壌が大事だ。その時にだけ、種は働いて、実を結ぶ。

 

「この神のことばは、信じているあなたがたの内に働いているのです」とあり、逆に言えば、神のことばを信じなければ、働く事ができない。信じる者に働くことになる。痛いと避けて、スルーしたくなるが、神の言葉を素直に受け入れられるよう祈ろう。そして一つ一つの示しに従って行こう。その度に神のみわざを見、そして信頼関係が深められて行き、成長して行ける。

 

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与えられた御言葉を頼っていく時に経験する御言葉のいのちと力は、耳に痛い御言葉でも同じのはず。無理だと聞き流す前に主に「できません」と祈りにもっていこう。