「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」出エジプト40:35

出エジプト記は、ヨセフを知らない新しい王が、民を苦しめるところから始まる。民は苦役にうめき、叫び、その苦しみの叫びは神に届く。そして記事の最後は「主の栄光が幕屋に満ちた」で終わっている。主は幕屋を作るように命じられた。「わたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」と。

 

それはアロンとアロンの子たちを祭司として任命し、聖別し、その所で、罪のための全焼のいけにえを献げさせるためであった。律法を与えると同時に、律法が示す罪への解決、罪のための贖いを備えられた。そして幕屋は、彼らの間に住むために与えられたと。

 

神が、民の間に住むことが、民をエジプトから出された目的だと言っている。「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である」と。苦難のエジプトから出されたのは、主が民と共に住むためであった。

 

新約では「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」そして「この方の栄光を見た」と。また「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝」と。「とどまる」=「住む」、主と一つであると。

 

そして将来の最終的、新天新地で「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」と。苦役の奴隷であった民、罪の奴隷であった私たちが救い出されて、主が住まわれる。何という光栄、喜びだろう。

 

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主は誰よりも身近におられ、語り、祈りを聞かれる。朝ごとに主の前に立てることは何と感謝だろう。そしていつの日か朽ちない身体で主にまみえる日が来る。