「すると彼は見えるようになって『人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます』と言った」マルコ8:24

  ベッサイダで、人々が盲人を連れて来て、主に触って下さるよう願った。すると主は盲人の両眼につばをつけ、両手を彼に当てられた。「何か見えるか」と問われると、彼は「人が見え、木のようだが、歩いているのが見える」と言った。見えるのだが、はっきりとは見えない。人が木のようにぼや~としていた。

 

見えるようになりつつあるが、まだ十分でなかった。そこで、主がもう一度両手を彼の両眼に当てられた。そして彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。癒された。主に直接触れられた時に、ぼんやり見えるようになり、彼が「見つめて」いた時に、「はっきり」鮮明に見えるようになった。

 

私たちはどうだろう。主を見つめているだろうか。じっと見ているだろうか。忙しくて、じっと見る余裕など無いだろうか。主が、何だかぼんやりしているのは、そのためだろうか。デボーションも、なすべき事が気になり、心が座らず、立ったままだろうか。主は彼の目を開かれたように、私たちの見えない心の目も開いて下さる。

 

御言葉により触れて下さり、ぼや~としていたのが、少しずつはっきりとするようにして下さる。主が見えるようにして下さる。彼は、ぼんやりした中も、失望せずじっと見続けた。今、まだよく見えなくても、御声に耳を傾け続けよう。時間をかけながら、主は必ず少しずつはっきり見えるようにして下さる。なすべき事は見つめ続ける事だ。

 

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朝にデボーションをしても、いつの間にか自分中心の歩みで終わってしまう。一日の終わりに顔を出すのは自我ばかりではないだろうか。主を求めよう。じっと見続け、御声を聞き分けていよう。