「ことばと口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」Ⅰヨハネ3:18

困っている人がいた時、又、助けを求めて来た時にどうだろう。良きサマリヤ人の箇所の、祭司やレビ人のように、関わるのが嫌で逃げてしまうだろうか。時間を取られたくない、又、予定外の仕事が入るのが面倒で、労力も経済的犠牲も払いたくない。だが、困っている者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶ時に答えられない、とある。

 

人は普段、無意識にも、自分が聞きたい言葉だけを聞いていると言われる。聞きたくない言葉には耳をふさぐ。だから聞こえない。そして聞かなかった事にすれば、悩まずに済むし、責任も感じなくて済む。だが、御言葉によると、困っている人の必要を無視すると、自分が呼ぶ時に答えられないと。

 

自分の祈りが聞かれなくなってしまう。事は重大だ。「自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、求めるものは何でも神からいただける」。行いを伴って愛する時、自らの祈りが聞かれて行くと。そして主との間に妨げがないので、御霊の喜びと平安に満たされる。この平安は何ものにも代えられない。

 

神は、私たちが、すべての事に満ち足りて、すべての良いわざに溢れる者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかりに与えて下さる。従うなら経験する。自分に出来る事でさせて下さる。犠牲を払う事を嫌がる気持ちをそのまま告げて、主の助けを祈ろう。従う時に、自分自身が主を知る大きな恵みの時とされる。

 

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困っている人に耳を閉じる時、自分が呼ぶ時に答えられない、と祈りの生活に関わから、大変重大だ。祈りに直結して来る。肉は、労力の要る事、犠牲が必要な事に関わりたくない。だが御霊に従う時、平安と喜び、大きな祝福にあずかる。従って良かったと必ず思える。