「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」Ⅰ列王19:3

エリヤはバアルとの戦いで、大勝利を遂げた。しかし、怒ったイゼベルはエリヤ殺害命令を下す。するとその途端、エリヤは恐怖の余り逃亡し、何と死を願ったのだった。エリヤは、偶像の神とあんなに勇敢に戦い勝利したのに、何を怯えるのか?と不思議に思うが、霊の敵を相手に、この上ない厳しい激しい戦いに心身消耗しきっていた。人間は無限でなく、身体的、心的に容量があり、限度もある。

 

又、霊的大勝利の後が、特に要注意と言われている。勝利に歓喜し、安堵し、油断してしまう。油断が大敵だ。又、高慢になってしまう場合もある。そこにサタンがつけ込み、牙をむく。成功の後こそ、身を引き締め、へりくだって、ますます主に拠り頼む必要がある。

 

あの信仰の勇者エリヤが怯えた原因は、イゼベルの言葉だった。主の言葉でなく、イゼベルの言葉の方を受け入れてしまった。聞くべき言葉と、聞き流し、拒否すべき言葉がある。言葉によって、心が動かされてしまう。私たちはどの言葉に聞いているだろう。神の言葉か、サタンの言葉か。

 

神はエリヤを責めも叱りもされず、休息させられた。深く眠らせ、食事を与え、十分休ませられた。心身消耗しきっている時は、まず休息が大切だ。十分な睡眠と食べ物で、すっかり回復したエリヤは、ホレブの山に行き、ほら穴にいた。

 

主は、山の上で主の前に立つように命じられた。そしてかすかな細い声に耳を傾けて行くと、神はエリヤの、もう自分一人になってしまったとの思い込みを正し、まだ7千人が残されていると。そして新たな使命を授けられた。エリやは主の細やかな配慮と手厚いサポートにより、再び、神の使命を果たすために立ち上がる事ができた。

 

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自分で自分を救おうとする途端に、不安、恐れ、思い煩いに襲われる。自分で救おうとせず、主のもとに行き、心の何もかもを告げ、自分自身を主に委ねる時に、心は平安にされ、主が救って下さる。そしてそこに主の栄光が現され、更に主を知ることとされる。