「イエスは彼らに言われた。『さあ来て、朝の食事をしなさい』」ヨハネ21:12

ペテロは、主を呪いをかけてまで否み、裏切るという大罪を犯してしまい、心はどんなものだったろう。主からガリラヤに行くよう伝えられ、故郷に戻ったペテロや弟子たち。どんな顔で会えばよいのか。合わせる顔がない。自分はもう弟子失格で、心はどんなに重いものだったろう。何もなすすべなく自分に出来ることは漁しかない。

 

それでペテロがその漁に出ると、他の弟子たちも一緒に出る。しかし魚は一匹も捕れない。無力感、虚脱感に陥っていただろう。魚も捕れず、ペテロは、自分の人生の大失態が脳裏から離れず、思いはそこでいっぱいだったろう。大好きな主を裏切り、主を捨ててしまった自分。

 

しかしそんな彼らに、主の方から、夜が明けそめた時、岸べに立たれた。そして「右側に網をおろせ」と。それを主とはわからず、ただ岸にいる人に言われる通りにすると、何と驚くばかりの大漁だった。全く同じ光景が以前にもあった。それと重なり、「主です!」と気づいた。

 

ペテロが主に召されて従った時のあの原点だ。ペテロは、もう一刻も早く主のもとへ行きたいと、湖に飛び込んだ。三度否んだペテロ、主を捨てて逃げ去った弟子たち、主はその心の挫折、後悔、痛みをご存じであった。主の方から弟子たちに朝の食事を用意し、ペテロを回復させられ、もう一度立ち上がらせられた。 私たちの信仰生活のどんな真っ暗な中でも、「夜が明けそめた時、イエスは岸べに」立っておられる。そして主の方から、朝の食事を振る舞って下さる。主の愛とあわれみは尽きる事がない。

 

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主の愛は、こちらがどんな状態であれ、不変だ。主のご性質が愛だから。なかなかそれがわからず自分の方から遠ざかってしまう。資格の全く無い者に与えられるのがあわれみだ。主のあわれみは尽きることがない。今日も「さあ来て、朝の食事をしなさい」と。