「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」Ⅰヨハネ5:3

私たちは誰しも、主に従って歩みたいと願う。そのため、職場で近隣で、嫌な相手と遭遇すると「愛さなくては」「受け入れなくては」と思う。嫌い、憎むと平安が失せて、気持ちがつらくなる。だから余計に愛さなくてはと頑張る。だが幾ら頑張っても愛せない。愛そうとすればするほど、ますます嫌いになる。嫌な感情は無くならない。平安も無い。

 

苦しくて祈る中で、肉で、自分の力で頑張っていると気づかせられる。気づくのだが、又、自分の力で頑張っている。肉はどこまでも強固で根深い。何度も同じ事を繰り返し、自分の力でやれば、やるほど失敗する。やがて疲れ果れ果ててしまう。そんな私たちに、主は「疲れた人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われている。

 

幾ら頑張っても出来ませんと、主の前に認める時に、肩の力が抜けて、ふうっと心に安堵が来る。自分が頑張るのは、出来ると思うからで、心の底では何とかなると思っている。出来ない自分を心底認める時に、初めて不思議な平安が来る。主のもとに行く時「休ませてあげます」の通り、肩の荷を下ろして、心に平安が広がって行く。

 

そして「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と。主が共に負って下さっているので、決して重荷とはならない。主と共に御言葉を行って行ける。そこには御霊の喜びがある。疲れているなら、主のもとへ行こう。まず、ありのままを告げることから始めよう。

 

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御言葉に従うことは良いことなので、疲れても頑張ってしまう。肉の力に頼らなければ自分は終わりだと思っていないだろうか。主を頼って重荷を預けよう。主を愛するありのままの自分でいよう。