「たとい、主が天に窓をつくられるにしても、そんなことがあるだろうか」Ⅱ列王7:2

飢饉で人々が餓死する非常事態の中、エリシャは「明日小麦や大麦が溢れるばかりにある」と語った。すると侍従は「そんな事があり得ようか」と言った。それを聞いてエリシャは、あなたはそれを見るが食べられないと預言した。そんな時、サマリヤの門に四人のらい病人がいた。町は飢饉、どうせ自分たちは死ぬ。それなら敵の陣営へ入ってみようと。

 

もしや食料があるかも知れない。すると敵の陣営で、神が敵に、大軍勢の騒ぎを聞かせられ、襲撃と勘違いするようにされた。敵は驚き恐れ、陣営を置き去りにしたまま逃亡した。それでそこに入ると、山ほどの金銀と食料が溢れていた。彼らは、王家に知らせた。王は信じなかったが、偵察により事実を知った。

 

すると大勢が殺到したので、門の管理をしていた侍従は踏みつけられ死んだ。預言通りになった。実際、溢れるほどの食料を神は用意された。しかし、それを信じなければ、自分のものにはならない。溢れる食料があるにかかわらず、飢えて死ぬ事になってしまう。私たちも同様だ。十字架の救い、神の愛、恵み、罪の赦し、義とされる事・・、

 

溢れる食料の中にいながら、信じなければ、餓死するように、溢れる恵みの中で、不信仰でいないだろうか。自分で恵みを遮断している、侍従は自分の姿ではないだろうか。溢れるばかりの、驚くばかりの恵みの中で、信じようとしない自分に気づく事から始まる。それはそのまま祈りに持って行ける。主はその祈りに答えて、信仰へと導いて下さる。

 

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目の前の現実が心を支配し、本当に御言葉は成るのかとつぶやく。不信仰のつぶやきをひとつ、ひとつ主に差し出して祈ろう。今しか見えない恐れも、主が守ってくださる。御言葉を信じる信仰へと進もう。