「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、ーしかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」ヨハネ2:9

主は、カナの結婚式で、ぶどう酒が無くなった時に、水をぶどう酒に変える奇跡をされた。その時に、手伝いの者たちに80~120リットルの水がめ6ヶに、水を汲ませた。彼らは、ぶどう酒が必要なのに、なぜ水を汲むのか。何の意味があるのかわからないまま、主が言われた通りに水を汲んだ事だろう。

 

その水が、ぶどう酒に変えられた。世話役や結婚式の出席者たちは、何もわからないまま、知らないまま最高級のぶどう酒を味わい、楽しんだ。しかしそこに神を認めることは無い。神への感謝も無い。しかし弟子たちは違った。それが主のみわざだと知っていたので、「それで、弟子たちはイエスを信じた」。

 

主は日々、私たちの日常の中で、みわざをなされ、働いておられる。しかし主を認めなければ、それは偶然で、ラッキーであり、たまたまそうなったのであり、運が良かったわけで、そこに主を認める事も、主に感謝する事も無い。私たちはどうだろう。日々、主のご愛や配慮を認める事なく、一つ一つの出来事を偶然として、流していれば、世話役や人々と同じだ。

 

この1日は主から来ていて、主から、家族が、仕事が与えられていて、環境も主の御手の中だ。当たり前ではなく、主からのものだ。そこに焦点を当てて、この1日を見る時に、弟子たちのように、主のみわざを認め、見る事ができ、感謝が溢れ、更に主を信頼して行くことになる。

 

----------

主の御言葉を受け、あのこと、このことと黙々として行く。何気ない日常に、水をくんだ者にしかわからない主からの感動が与えられる。今日も主に従い歩もう。