「そして舟に乗り込まれると、嵐がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった」マルコ6:51

弟子たちが、夜の嵐に悩まされていた中、湖の上を歩いて、弟子たちのもとに来られた主を「幽霊だと思い、恐れで叫び声をあげた」とある。みなイエスを見ておびえてしまったと。なぜ、主が幽霊だと思ったのだろう。「彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていた」。心が堅く閉じていたからだと。

 

主を見ても主だとわからない。認識できなかった。まず、主が湖の上を歩くなどと、発想もなかった。「彼らの心中の驚きは非常なものであった」なぜ主が湖を歩くはずがないと思ったのか。弟子たちは、主は偉い先生だが、人間だとしか思ってなかった。主を正しく認識せずに、間違って認識していれば、助けを受ける事ができない。

 

主を小さく見積もるなら、様々な問題に、「これは難しい」「これは無理」と決めつけ、不信仰の暗闇に落ち込んでしまう。嵐に飲み込まれ、沈んでしまう。不信仰は主の力を制限する。私たちはどうだろう。この程度なら主も可能だろうが、これは難しいからだめだと、自分で判断し、思い込みがないだろうか。

 

「幾ら主でもこれは不可能」との思いが心の底に無いだろうか。それこそ心が「堅く閉じている」状態だ。それなら、主が助けに近づかれても、主を怖がりおびえてしまう。自分が主の上に立ち、判断している事に気づこう。主に心を開く時、全能の主がかたわらにおられる事に気づく。不可能な事が一つも無い主だ。そして愛の主だ。問題に心を開いて主を迎える時、風がやむ。平安が臨む。

 

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主が幽霊に見えるように、見えない先の事を思い煩う時、漠然とした不安や恐れで幽霊に見える。不安で不安でたまらない。しかし「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と、向こうから来るのは幽霊でなく主だ。信仰に立つ時に、心は守られる。