「私はあなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます」詩篇119:15

有名な話がある。ある親子がロバを連れて旅をしていた。すると通行人が言った。「せっかくロバを連れていて、誰も乗っていないなんて!」父親は「そうだ」と思い、息子をロバに乗せた。又、通行人が言った。「親不孝な息子だ。自分がロバに乗って、父親を歩かせるなんて」そう言われた息子は降りて、父親をロバに乗せた。すると別の通行人が「何てひどい親だ。自分がロバに乗って、息子を歩かせるとは」。それで親子でロバに乗った。すると今度は「何とひどい!あんなロバに、2人も乗るなんて」親子はどうして良いかわらず、2人でロバをかついだ。

 

人の目を気にし、体面を気にして生きると、ほんろうされて、どこに向かうかわからない。羅針盤を失った船のようだ。私たちが気にするのは、人の言葉でなく、主の言葉だ。主はどう思っておられるのか。主のお心は? 御言葉と人の言葉とどちらが行動基盤になっているだろう。

 

御言葉のほうに従って行く時、心が定められ、確信が与えられるので、無責任な人の言葉が気にならなくなる。御言葉には力がある。無責任な人の言葉には、「しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう」と、耳しいになる必要がある。思い煩いや不安の不信仰へと誘われてしまう。 「人の言葉にいちいち心を留めてはならない」ともあり、何でもかんでも受け入れるのではなく、聞く言葉と聞かない言葉の区別が必要だ。御霊の助けを祈っていよう。

 

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愛のある、的を射た助言や忠告は、聞かなくてはならないが、人の無責任な言葉は気にしない事だ。聞くべきは、主の言葉だ。御言葉から目を離すと、揺れ動いて定まりが無くなってしまう。御言葉により思考し、御言葉により判断し、御言葉を行ってゆけるよう、祈ろう。