「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4

ある人が、ある事に強い願望があり、「○○を与えてくれたら、神がおられることを信じる」との祈りをした。ところが、その事は成らず、何も起こらなかった。しかし、その事についてよく考えた時に、神がなぜこんな自己中心な、自分勝手な祈りに答えなければならないのか、自分が間違っていると思えた。

 

私たちにも、あるかも知れない。神が自分の思い通りに、祈りに答えてくれたなら、神を信じよう。そうでなければ、信じない。これは不信仰だ。御言葉だけなら、信じがたいので、自分が納得できる証拠をくれという事になる。これは際限が無い。そしてこのようなら、仮に主がみわざをして下さっても、自分の思い通りでないなら、決して受け入れないし、認めない。

 

主と御言葉の上に、自分を置き、主を試している事になる。高慢な思いだ。そこには自分の思いがあるばかりで、主が見えない。主は、私たちが欲しいものを、手に入れるための手段ではないし、幸せになるための手段でもない。主は、私たちの思い通りには動かれない。そうでなく、主と御言葉の下に自らがへりくだり、自分の思いを捨てて、主の御心を求めて、そのお心に従って行く時に、必ず喜びと平安が来る。

 

自分の思いでなく、主の御心が重要だ。主のお心を求めて行く時に、主とひとつだ。主とひとつであるので、主の願いが、自分の願いとなり、その御心に適った願いは叶えられることになる。主を喜びとする人は、主のお心を求めて行くので、その求めは叶えられる。今、軌道修正が必要だろうか。

 

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祈りはありのままの自己中心から始まるが、主の御心を尋ねているうちに、手放せない思いも明け渡せるようにとの祈りに変えられる。主が整えてくださるのをいつも感じる。