「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。私たちはこの点でそしられるのです。・・もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです」ローマ3:8

神は完全に罪を赦して下さる。主の血潮のゆえに無罪放免にして下さる。しかし、では、何をしてもどうせ赦されるのなら、いいではないかというのは間違っている。安易に罪を犯してはならない。

 

決して恵みを放縦に変えてはならない。何でも赦されると安易に考えてはならない。 非行により犯罪を犯した子供は、施設で厳しい矯正訓練を受ける。その親は、迷惑をかけた各方面への謝罪に奔走し、壊した物に弁償金を支払い、時間労力をかけてあらゆる償いをする。そのように、傷害事件を起こした時、悔い改めるなら、完全に主は罪を赦して下さる。しかし、法律上の刑罰を免れる事はできない。法に即して罰を受ける事になる。

 

又、憎しみや敵対心で人を傷つけたなら、悔い改めにより、主は赦して下さる。しかし一度壊れた信頼関係を、再び築き上げるには、多大な労力と時間が必要だ。罪のもたらす傷や害は、私たちが思っている以上に大きい。罪は、自分だけにとどまらず、家族や周囲をも巻き込んで、傷を負わせてしまう。決して罪を軽く見てはならないし、安易に罪を犯してはならない。

 

だが、もし弱さのゆえに罪を犯してしまったなら、悔い改めて、全き赦しを受け取り、主と共に刈り取ろう。人は蒔いたものを必ず刈り取る事になる。しかしなおも主は豊かにあわれんで下さる。主のあわれみは尽きず、主に在るなら、その刈り取りをも訓練として用い、祝福と変えて下さる。

 

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何度も失敗し罪を犯し続ける者なのに、主の私たちへの御思いは変わらない。この十字架の赦しと恵みになんと鈍感なことだろう。罪の刈り取りをも恵みとし祝福としてくださる。