「・・すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人はその行ないによって祝福されます」ヤコブ1:25

御言葉は「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」と言う。泣く者と共に泣くのは、映画を観て感情移入して泣くし、余りにも悲惨な報道にも、同情やあわれみの気持が出て来る。又、泣く者と共に泣くのは、自分が優位に立っているので、まだ出来やすい。肉にでもできるのだ。しかしこれは御言葉の真意ではない。相手の慰めにはならない。

 

御霊に導かれない限り、真に泣く者と共に泣くことはできない。そして喜ぶ者と共に喜ぶことが、非常に難しいと言われている。罪の性質には、根深い嫉妬心があるからだ。比較で人を見てしまい、シーソーのように感じ、誰かが賞められたなら、自分がけなされたと思ってしまう。誰かに幸せな事があるなら、うらやましさで一杯になる。

 

同期の者が、先に出世したらどうだろう。素直に喜べるだろうか。妬みが出て来てしまう。ある人が友人が合格で、自分が不合格だった時に、複雑な思いで、どうしても友人の合格を喜べなかった。心つらく平安は無い。主の御心は喜ぶ者と共に喜ぶことだ。「喜べません」と正直に祈った。

 

すると自分には出来ないが、意志を向けて、主に喜ばれる選択をしたいと、思いが変えられた。そして従いたいと、祝福の言葉を伝えた。すると相手は非常に驚き、一番嬉しかったと喜んでくれた。それは証しとされた。自分も心平安にされた。自分にはできないと祈ろう。人にできない事が、主にはできる。御言葉に従えるよう、御霊が助けて下さる。

 

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御言葉を実行しようとするとすぐに出来ない事を認めさせられるが、そこで駄目だと退くのと、主がさせてくださることを信じ、意志を向け祈るのでは結果は全く違う。その祈りを主が叶えてくださるからだ。