「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩篇119:71

様々な人の「苦しみに会ったことは、幸せでした」との証しを聞く。あの苦しみゆえに、神に真に向き合えた、砕かれ、造り変えられた。余裕がある間は、自分を装い、繕っておれるが、試練は、何もかもはぎ取り、自分の素の姿をあらわにする。ある婦人は、嫁ぎ先で、姑と難しい関係であったが、良い嫁を頑張った。懸命に家事をこなし、姑にも精一杯仕えた。

 

しかしつらく当たられ、涙を流す日々だった。ほとんどいじめにも思えるつらい日々であった。だが自分はクリスチャン、証しにもなるようにと、懸命に仕えた。外側は、きつい姑に仕える、けなげな良い嫁に見えた。しかし御霊は心の奥を照らされた。心は、姑に対する憎しみ、恨み、怒りが渦巻いていた。

 

そして密かに、巧く、わからないように復讐していた。良い嫁を繕った、内奥の恐ろしい罪を、御霊は照らし出された。まさに自分は罪人であった。心からその罪を悔い改めた。今まで罪人だとは認めるのだが、ましな罪人で、罪が余りピンとこなかった。主の十字架が迫り来て、まさに自分のためであることが真にわかった瞬間だった。

 

いかに闇の中にいたかを知り、光に照らされ、罪赦される喜びを、平安を経験した。御霊の喜びであった。苦しみに会った事を心から感謝した。姑にも、はしばしに出ていたであろう悪い態度、心が開けなかった事を詫びた。自分の心が全く変えられ、主が働かれ、姑のとの関係が変わった。声を上げて心底笑い合える間柄にされた。

 

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苦しみに会う時には、とてもじゃないが、これが幸せになるなどと決して思えない。つらく悲しいばかりだ。しかし後の日に、その事で、主を深く味わい知る事になり、世の喜びでない御霊の喜びを与えられている事に気づく。どんなにつらくとも、光があり希望がある。