「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した」創世記32:24

ヤコブはずっと神と取り引き関係だった。神に祈るのだが、自分の利得のために神を利用していた。兄エサウをだまして、祝福の権を奪い取り、激怒する兄のもとにおれず、家を出なければならなくなったヤコブ。伯父の家に向かう途中、野宿した時に主が現れる。主が共におり、守り、この地に連れ帰ると。

 

そんな主に、ヤコブは、無事に父の家に帰れて、主が私の神となってくれるので、十分の一をささげると。ギブアンドテイクの関係だった。心が神にあったわけではなかった。これまでもずる賢く、策略を用いて、この世を渡って来た。伯父ラバンの家で、20年の歳月、苦しい試練に会う中、とうとう神の時が来て、帰郷するように主から示され、伯父の家を出た。

 

帰郷にあたって、だました兄エサウが恐怖でならなかった。激怒していた兄に、家族皆殺しにされるのではないか。あらゆる策を尽くすが、どうやっても兄への恐怖は、どうにもならなかった。しもべや家族を先に行かせて、ヤコブは一人一番後ろに残った。心を神に向けた時、自分を祝福してくれるまで放さないと神にしがみついた。

 

その時、もものつがいがはずれた。ヤコブは砕かれたのだった。固い固い強固な自我が砕かれた。自分の思いと自分の意志、自分の力が強いヤコブは、これまでは神を利用して来ただけだった。そのヤコブが180度変えられた。列の最後尾で恐怖でおびえていたのが、先頭に立って行き、エサウと和解できた。自分にどうにも出来ない状況こそが幸いだ。主の取り扱いにあずかれる。

 

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ヤコブはエサウへの恐怖が、どんなに画策し、周到に準備してもどうにもならなかった。その絶体絶命の中で、真に主に出会った。主は私たちも取り扱われる。自力で、何もどうにも出来ない時こそが大きな恵みの時だ。主に深く出会える時だ。