「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」創世記3:11

蛇に誘惑され、エバは善悪を知る木の実を食べてしまった。それを夫に与え、夫も食べた。罪を犯した結果、二人の目は開かれ、自分たちが裸である事を知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、腰のおおいを作った。園には、アダムとエバの二人しかいないのに、いちじくの葉という頼りないもので、お互いに隠し合うようになる。

 

そして主の声を聞いた時に、主の御顔を避けて、木の間に身を隠した。神と何の妨げもない自由な喜びの交わりにあったのが、神を恐れて、避けて隠れるようになった。神の前にも、互いの間でも、ありのままではおれなくなり、自分がどう見られるかを気にし、相手の目を恐れて生きるようになった。

 

そして、神がアダムに「食べてはならいと命じておいた木から食べたのか」と問われた時に、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、くれたので、私は食べた」とエバに責任転嫁し、エバのせいにした。それも「あなたが、置かれた」と暗に神のせいにもしている。神は「食べたのか」とストレートに問い、悔い改めの機会を与えられた。しかし悔い改める事なく、エバが悪いからこうなったと。

 

エバは蛇のせいにした。責任転嫁、自己正当化、あるがままでおれなくなり、自分を隠す、神からも隠れる、様々な罪の結果が生じて来た。自分の内側にもある事を認めるなら幸いだ。「ごめんなさい」と答えるなら、主は豊かに赦して下さる。失敗はするが、赦されて生きて行く。繰り返しの赦しを通して、神の深い愛を知って行く。

 

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罪を犯すと謝るより先に隠そうとするアダムの性質をしっかりと受け継いでいる。罪の赦しが与えられているのは、何と感謝なことだろう。あわれみは尽きない。ごまかさずありのままで神に向かおう。