「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63

ある人が、非常に苦しい、つらい状況にいた。身動き取れない厳しい状況だった。その上に、経済的苦境や対人関係の問題も起きて、もういっぱいいっぱいで、心に何の余裕もなく、聖書を読むことも祈る事もできなかった。実は自分が拒否していたのだが。なぜ自分ばかりがこうなのか、自分は祝福されていないと、心を屈折させていた。

 

周囲が心配してくれているのはわかるのだが、皆が幸せそうに見えて、反発心まで出て来る。自分のカラの中に閉じこもり、周囲をシャットアウトし、教会にも行かなかった。心の屈折が、自分でどうにもならなかった。そんな中、心配して信仰の友が家に来てくれた。突っ張った態度しか取れない、情けない自分だった。相手の言う事に反抗ばかりしてしまう。

 

だが心にはもう一人の自分もいた。こんな自分のためにわざわざ来てくれて、申し訳ない、有難い。心を頑なにしていて、平安は全く無かった。これでいいはずはない。だが状況は苦しい。ぼろぼろで、グダグダな心を主に向けた。

 

その時、御言葉が心に響いた。その翌日、牧師夫人からの手紙を受け取ると、全く同じ御言葉があった。もろに主を感じ、主からの自分への言葉と受け取れた。主を信じようとせず、すねた、曲がった自己中心な心を悔い改めた。信じて行こうと思えた。立ち返れたのは、やはり周囲の祈りと御言葉だった。御霊からの言葉は、霊でありいのちであり、力だ。

 

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苦しい時、落ち込む時、主のひと言葉が、新しい力を与え立ち上がらせてくれる。又、迷う時、どうしてよいかわからない時、主の言葉で光が臨み、御心へと導かれる。御言葉はいのちだ。何度も生き返らされた。主がいつも共におられ、御声をかけていて下さる。耳を澄ましていよう。