「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った」ルカ19:4

人は、被造物なので、何かに頼らなければ生きて行けない。自分は自主独立だと言う人がいるが、自分に頼っている。富に頼っているかも知れない。神に頼らなければ、必ず何か別のものかに頼り、心の偶像となる。愛する人、名誉、地位、人からの賞賛、仕事、趣味・・何かを握りしめて、心の安心を得ようとする。

 

ザアカイは、富が自分を幸せにしてくれ、夢を叶えてくれ、生きる喜びを与えてくれると信じたので、富を握りしめた。不正の利で、財を築き上げ、取税人のトップに昇りつめ、資産家となった。有り余るほど富を得た。しかし不正の罪を犯していたので、心は暗く、喜びも平安も無かった。富は自分を決して幸せにはしてはくれなかった。

 

心は虚しく、更に人々にも嫌われ、孤独な日々だった。一筋の光を主に求め、望みを主に置いた。ところが主はすでにザアカイをご存じで、主を求める渇いた心を受け止めておられた。ザアカイは人々に阻まれて、主に会えないとわかると、木に登ってまで主のもとへ。それほどの一途な心を、求めを、主はどんなにか愛し、応えて下さった。

 

「今日、あなたの家に泊まる」とすでに決めておられ、ザアカイは主と食事をし、主と共にいた、その後、180度変えられた。別人になった。金の亡者が、半分を貧しい人に施し、だまし取った人々には4倍にして返すと。以前のザアカイを思うと、奇跡のようだ。主の愛に満たされた結果だった。

 

主は、主への求めを喜ばれ、求める心に応えて下さる。神以外のもので、安心を得ているだろうか。主はご自身に求めて来る人を決して拒まず、豊かに満たして下さる。

 

・・・・・・・・・・・・

主を切に求めるたましいを、愛して受け止めて下さる。「主を見るために、走り、登った」。朝起きた時から、そして日々に主を切に求めたい。主との関係が深められるよう、又、目をそらす妨げがあるなら、気づきが与えられるよう祈ろう。