「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります」ローマ11:6

普通、給料とは、時間と労力を雇用主に提供して、得た報酬だ。それが賃金となる。だが全く時間も労力も提供せずに給料が出たらどうだろう。それは報酬ではなく、一方的に与えられるプレゼントだ。そして、それが「恵み」だ。正しい行いがあって、義と認められるなら当然だが、行いが無いどころか、「不敬虔な者を義と認めて下さ」っている。普通、有り得ない事だ。

 

「私たちがまだ弱かった時・・不敬虔な者のために死なれた」「罪人であった時、キリストが死んで下さった」「行ないによるのではない。誰も誇ることのないためです」。ぶどう園の労務者の箇所で、5時から雇った労務者に、早朝から働いた労務者と全く同じ1タラントが支払われた

 

5時など、もう後片づけに入る時刻だ。しかし家族に持ち帰る今日の糧は無く、朝から5時まで不安な中にいた者にとって、どんなに救いだったろう。主は、これほどにあわれみ深く、驚くべき気前の良い方だ。この世の常識では計算が合わない。主の一方的なあわれみの心だ。

 

放蕩息子の箇所も同様だ。父からの財産を使い果たした弟息子が、我に返り父のもとに帰る時、父は、財産の事は一言も無く、なおも与える。最上の着物、指輪、靴に、最上の子牛をほふり、祝いの宴会を開く。。主は「弱い者」「不敬虔な者」「罪人」を愛される方だ。働きのある者、敬虔な者、霊的な、立派な者だけが愛されると勘違いしていないだろうか。

 

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主の世界は、恵みとあわれみが支配する世界だ。世は真逆で、救われた後も培われた古い価値観が根深くあり、なかなかわからない。弱さの中で、また試練の痛みの中で、そのどん底に尽きないあわれみが満ちている事、又、恵みは常に十分であり、弱さの中で主の力が働く事を知って行ける。