「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです」詩篇102:17

ある男性が、高齢になり足腰が弱っていたが、とうとう車椅子となり、人手を借りなくては、移動ができなくなって来た。礼拝出席も一人では不可能な状況となった。若い時は、人に助けられるのが嫌いで、絶対に人の手を借りたくなかった。プライドであった。しかし自分自身も変えられた。礼拝出席はどうすればよいのか、切なる祈りを献げた。

 

するとそんな中、礼拝出席サポートの申し出が来た。心から感謝して受けた。祈りの答えであり、主からの助けと受け取れたからだ。以前なら拒否反応だった事だろう。受ける事が、上下関係の下に思えていた。助けを求められない事が、自らの弱さであった。しかし今は、主ご自身からのサポートとの目で見れるようになった。そしてその相手に心から感謝でき、感謝して受けることができて、自分自身は平安に満ちた。

 

ある人は、ずっと第一線でバリバリと働き、どんどん成果を出していた。そんな中、体調を崩したのだが、突然の思いもよらない難病の発覚に驚かされた。ハードな仕事は到底無理で辞職した。突如の人生の窮地に、祈りに祈った。とにかく祈った。心の思いを何もかも聞いて頂いた。その時に「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」との御言葉が臨んだ。

 

暗闇の方へ引っ張られようとする思いがストップされた。御言葉が救ってくれた。疑いや不信感等、幾らでもネガティブの方向へ行けるが、御言葉に立ち続けた。今まで与えられたものは、主によるのであり、それを取られるのも主。自分はどうであれ、これから先も、主を礼拝して生きて行こうと、心が平安にされた。窮した時はとにかく祈ろう。

 

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どうにもならない窮状の時、絶体絶命の時に、どんなに行き詰まったとしても、私たちには祈りが与えられている。何があっても祈れるとは何と有り難い、感謝な事だろう。その祈りに答え、主が働いて下さるとは、何という恵みだろう。窮地の祈りが何度も聞かれたことを思い出す。