「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6

五千人の給食の箇所で、ピリポが、主から、群衆にどうやってパンを食べさせようかと問われた時に、手持ちの金では足りません、無理ですと答えた。所持金に対して大勢の群衆、目に見えるところで結論を出し、不可能だと。目に見えるところがすべてで、そこに主が抜け落ちてしまっていた。持てる物によっても、自分によっても不可能だが、主には出来る、これが信仰だ。

 

「人にはできないことが、神にはできる」。主はその信仰を求められた。そして主はすでに、しようとしている事を決めておられた。詩篇記者は、「軍力の大きさによっては救われない、人は力の強さにはよらない、軍馬も軍勢も救いにはならない」と言っている。普通、戦争に勝つには、兵力が勝負だ。百人対一万人なら、どう見ても一万人が有利だ。

 

ところが詩篇記者は、兵力の大きさは救いにならないと。救いは主によると。主に信頼し、主の指示に従って戦う時に、勝利を得る。私たちはどうだろう。現実生活においては、兵力の多い少ないがすべてだろうか。ピリポのように、見えるところで計算してしまっているだろうか。

 

目の前の困難、問題、悩みに、見える所を見て、失望落胆しているだろうか。 主が飛んでしまい、抜け落ちてしまっていないか。今、あるがまま、そのままの気持ちを、まず祈りに持って行こう。信仰を与えて、導いて行って下さる。主がしようとされている事がすでにあるのだから。

 

・・・・・・・・・・・・

手持ちの能力、時間、財源を見る時、自分にはできないし、不可能だと思える事は多い。しかし主が味方であれば、軍力でなく、大人数でも小人数でも関係がない。人にできない事が神にはできる。自分ではなく、主に望みを置いて、主に拠り頼もう。