「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした」創世記33:3

ヤコブは主から帰郷を命じられ、とうとう兄との対面の時が来た。激怒の兄に殺されそうになり家を出たので、恐怖しかない。祈るのだが主を信頼しきれない。兄が怖い。考えられる限りの方策を用いる。兄へのなだめの贈り物を先頭に送り、次にしもべたち、その後に家族を送り、自分は一人残った。もう少しで故郷だ。どうすればよいのか。悶々状態だ。

 

家族皆殺しにされるのでは。恐怖は恐怖を呼ぶ。祈るのだが、根が信じ切れないので、恐怖は無くならない。人生最大の窮地だったろう。その時にある人が、ヤコブと格闘した。ヤコブが格闘したのでなく、神だった。神主導だ。主がヤコブの苦しみを解決しようとされた。この格闘で、主がヤコブのもものつがいを打たれたので、もものつがいがはずれた。

 

神主導で、ヤコブのどうにもならない強い自我を打たれた。ヤコブは砕かれた結果、別人になった。恐れて皆を前に行かせ、自分は最後尾にいたのが、何と自分が先頭に立って、兄に会いに行ったのだ。そうすると、兄はすでにヤコブを赦しており、和解が与えられた。

 

主がヤコブに大きく関与された。これはともかくもヤコブが祈った祈りの答えだ。「わたしは、あなたをこの地に連れ戻す」との約束が与えられていたのに、信じる事ができないで、恐れおののいていたヤコブ。しかし主はご自身の約束を成し遂げられる。器を造り上げられる。あなたもヤコブ同様、主に握られている。問題を通して砕き、練り、聖め、御子のかたちへと造られる。主により変えられて行く。

 

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ヤコブは苦しみの20年により、砕かれ、練られ、造られて行ったのだが、最後の兄への恐怖がどうにもならなかった。信じきれず、委ねきれず、身動き取れない。そこに主が関与された。逆に、主にして頂くしかどうにもならない状況こそ、大きな恵みだ。