「彼らはそこから、ケルビムに座しておられる万軍の主の契約の箱をかついで来た」Ⅰサムエル4:4

偶像礼拝とは、単に金や木の像を拝む事ではない。まことの神を自分の願望、欲望のために利用する事も偶像礼拝だ。主を畏れ、御前に自らを砕いて、へりくだり、従うのではなく、自分の都合、利得のために、どこまでも自分のために、神を持って来ようとする態度だ。だから聖められる事なく、何一つ変えられる事も、正される事もなく、神は、ただ自分の欲望充足のための手段となってしまう。

 

イスラエルの民は、ペリシテとの戦いで敗北した時、主の契約の箱を持って来ようと言った。箱を持って来さえすれば、勝てると思った。しかし契約の箱を持ってくれば、神をかつぎ出せるのではない。そもそも自分たちのために、神をかつぎ出そうなどという考えが根本的間違いであった。

 

イスラエルは見事に打ち負かされ、箱まで奪われた。神は奪われるがままにされた。神が守れなかったのでなく、神が敗北させられた。裁きであった。そして神の箱の中を見たベテ・シェメシュの人々を激しく打たれた。神を畏れ、伏すのでなく、上に立ち、好奇心と興味でのぞいた結果だった。

 

神を動かすのでなく、私たちは神を神として崇め、御前にへりくだって従って行く、これが方向転換であり悔い改めだ。神の喜ばれる態度だ。平安や喜びがない時、御霊に心を探って頂こう。主への態度、又、方向性が間違っていないだろうか。正される時に、主の溢れるばかりの愛がわかり、心が平安にされる。軌道修正され、心に御霊の喜びが来る。

 

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肉は根深く、気づかずに自己実現や自己充足のために神を利用してしまう時がある。自分、自分、となって、底には自分の栄光になってしまう。御霊が気づきを与えて下さる事が感謝だ。御前にへりくり、ひれ伏す時に、御霊の中に置かれ、結果的に充足感で満たされる。