「・・神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」ローマ8:29

私たちは、主のために働きたいし、役に立つ器とされたいとの思いがある。だがそこでキリストに似た者に変えられて行く「聖化」というより、自分の賜物がいかに用いられたか、どれだけの働きを遂げたかというような、目に見える「成果」を求める間違いに陥ってしまう。

 

この世の価値基準が、目に見える「成果」だからだ。企業はどうだろう。立派な動機があり、素晴らしいプランがあっても、何の「成果」も無ければどうだろう。慈善事業ではないので、結果を出さなくては意味が無い。結果がすべてだ。成果が要求され、それを追い求めて仕事をしている。 しかし私たちは異なる。私たちが救われたのは、主に似る者とされるためだ。生涯を通じて、主のかたちへと造り変えられて行くことだ。主の愛、主の喜び、平安、寛容、親切・・へと変えられて行く。だが私たちの内には、根深い肉の性質があり、それは「自分が」認められたい、評価されたい。「自分が」褒められたい。賞賛されたい。どこまでも「自分」「自分」がある。

 

無意識にも主の栄光でなく、自分の栄光を求めてしまう。肉は自分の力でやって行きたい。そして自分が認められ、評価される事が嬉しいし喜びだ。だが、そこに神の栄光は無い。キリストに似るという目的からずれる時、肉がすぐに頭をもたげ、自分の栄光にすり替わってしまう。

 

主と同じかたちに変えられて行くのは御霊の働きによる。自分では不可能だ。御声に一心に耳を傾け、御言葉に一歩一歩従って行く時に、自分の力によってでなく、御霊によって変えられ、造り上げられて行く。そのように定めて下さっているとは、何という恵みだろう。

 

・・・・・・・・・・・・

万事益とされるのは、御子の似姿に変えるためとある。御子のかたちへ変えるように、益とされるのだと。古い価値観は、自分の利益のために、万事益にされると勘違いしてしまう。一つ一つの失敗も、御子の似姿に変えるために益とされるとは、何という恵みだろう。