「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」ヨハネ4:16

サマリヤの女性は、井戸ばたに水を汲みに来ていた。女性たちは皆、涼しくなる夕方に生活用水を求めて井戸に来た。そして談笑を楽しんだ。井戸端会議だ。しかし彼女は、カンカン照りの暑い、誰も来ない昼間に来た。人目を避けての事だった。その時に、主は彼女に「水を下さい」と求められた。

 

彼女は、サマリヤ人のそれも女性に、ユダヤ人の男性が話しかけることに驚いた。当時そういう習慣は無かった。それにサマリヤ人とユダヤ人は敵対関係だった。そして主は、ご自身こそが、生ける水を与え、渇くことのない、真の心の満たしを与えることができると言われた。

 

箴言に「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とあるが、人間は心の奥で誰しも、愛し、愛されることを求める。しかし人間の愛は条件付きであり、時に人の心は変わってしまう。この女性は、男性の愛を求めて、さまよっていた。それにより自分は満たされ幸せになれると思ったからだった。

 

そのため五度の結婚と離婚を繰り返し、今の相手とは同棲中だった。しかしそこに心の満たしは無かった。この世の水は飲んでも飲んでも、満たされるどころか、ますます渇く。そのため、次から次へと満たされるものを求めて、さまよう事になる。私たちも、もし心に喜びや満足が無ければ、主以外のもので、心を満たそうとしていないだろうか。

 

それなら更に渇くばかりだ。心の奥に強い渇きがあり、満たされずに、虚しさの中にいた彼女のその心を知り、わざわざ彼女に会うために、主はサマリヤに立ち寄られた。「サマリヤを通って行かなければならなかった」と。私たちの心の渇きを主はご存じだ。主こそが渇きを満たして下さる唯一のお方だ。

 

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主は、女性の心の奧の渇きと求めを知っておられた。そして心の必要を与え、満たされた。私たちの心の奥はどうだろう。何を求めているのだろう。もし主を求めていたなら、必ず満たして下さる。泉となり永遠の命への水が湧き出ると。