「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです」Ⅰテサロニケ2:13

パウロは、テサロニケで迫害に会い、そこを逃れ、アテネからコリントへと向かい、コリントにいた時に、迫害を受けている人々に、テサロニケ人への手紙を書いた。当時、コリントの教会は堕落と混乱の中にあった。不品行がはびこり、性的に堕落していた。父の妻を妻にしている者がいたりした。罪がおおっぴらに行われていた。

 

又、妬みや争いがあり、救われているにかかわらず、肉に属し、ただの人のように歩んでいる状態だった。テサロニケの人々とどこが違ったのか。種蒔きの譬えにある。種である御言葉が、地中深く埋まる時、つまり私の心が開かれていて、御言葉をしっかり受け止める時に豊かな実を結ぶ。種である御言葉と私たちの心である土地が合致し、しっかり受け入れられる時に実を結ぶ。

 

強い偏見や、又、他人事に聞いていると右から左へと抜けて入らない。又、岩のごとき自我が心にあり、根ざさせない。御言葉より自分の思いの方が良いと思ってしまう。又、茨が生えて来て、伸びようとする芽をふさぐ。神より大事なものを握りしめて、御言葉がわからないようになる。

 

テサロニケの人々は、神の言葉として、しっかり受け止めた。その時、御言葉を信じたいとの思いでいる私たちの内に働く。御言葉の受け入れ方にかかっている。聞いている「つもり」では。聞いていないので、祈って御霊の助けを仰ごう。

 

・・・・・・・・・・・・

御言葉は霊であり、いのちだ。御言葉を信仰を持って受け入れる時に、それはいのちとなり、そこに主が働かれる。だから御言葉によって、苦しみ悩みの様々な状況の中で、救いを得る。必ず自分が変えられて行く。聞き流していないか、どのように聞いているか、今一度心探ってみよう。