「だれでも、私につまずかない者は幸いです」マタイ11:6

バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の罪を、はっきりと指摘した。ヘロデは自分の妻を追い出し、弟の妻を妻としたためだ。その結果、ヨハネは、投獄されてしまった。正しく不義を裁く主は、ヘロデを罰されるのではないのか。無実の自分も牢から出されるのでは。

 

しかし投獄後、全く何も起こらない。又、ヨハネが思っていた主と、牢の中で、弟子から伝え聞く主の姿が違っていた。「手に箕を持たれ、殻を消えない火で焼き尽くされる」、悪を裁く正義の審判者であるメシヤを思っていた。が、悪を懲らしめる審判者でなく、人を慰め、病人を癒やし、罪を赦している。

 

そのためヨハネは戸惑いつまずいて、弟子たちに「おいでになるはずの方は、あなたか。そうでなく、別の方を待つべきか」と問わせた。主は、その弟子たちに「自分の聞いて見ていることを報告せよ」、つまり目の前の「事実」を伝えよと言われた。

 

「盲人が見、足なえが歩き~~」これらは、メシヤ到来のしるしだ。旧約聖書の預言の成就だ。「わたしにつまずかない者は幸い」とヨハネに託された。これらの事で判断せよと。そして、主はヨハネのことを、「預言者よりもすぐれた者。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人はいない」とまで言われた。

 

主はヨハネを正しく認め、評価し、愛しておられた。ある人々は剣の刃を逃れ、ある人々は殉教した。皆、道は異なり、それぞれに託された御旨があり、総決算はこの世ではなく、天にある。真摯な疑問は、直接、主に聞けばよい。主はその問いに答えて下さる。

 

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主は一人一人に、全く別の御心を持っておられる。隣の人とは違うので比較ができないし、隣は関係がない。主を見上げよう。主のご愛、真実を信じて、そこからぶれないでいよう。そして心に疑いが起きる時は、直接主にありのまま持って行こう。