「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば・・成長を遂げ・・」ヤコブ1:2

「忍耐する」とは、じっと我慢する事でなく、神が必ず、今の事態を良くして下さると信じることだ。夜の後には、朝が来る。この真っ暗なトンネルは必ず抜けると信じることだ。積極的で、前向き、信仰的なことだ。そして、試練に対して、逃げないで、とどまる事だ。誰しも、どうしても痛い事は避けたいし、苦しい事からは逃げたい。

 

世の人は、お酒を飲んで、目の前の痛みを紛らわすが、私たちは、飲酒はせずとも、嗜好に、自分にとって心地良い事に没頭して、逃げるかも知れない。しかし逃げずに、試練と向き合う時、どうにも出来ない自分の無力、自分の弱さが見せられ、向き合わされる。なすすべが無い。この事こそが感謝で、だからこそ、真に主に拠り頼むようにされる。

 

無力こそが、真に主に出会えるようにするための、主のセッティグだ。無力だからこそ、主に助けを求めて叫び祈る。自分で出来る事は、主を求める必要が無く、自力でやってのけてしまう。しかし、どうにもならない時には主にすがる。何も思い煩わないで、心配しないで、主に祈れと言っておられる。

 

祈りが与えられている。つらい、苦しい気持ちも主は受け止めて下さる。祈り続けて行く時に、主からのメッセージが来る。御言葉を通して、状況の変化や、戸の閉じ開きを通して、他者の助言を通して、様々なところから、主の御声が聞こえて来る。祈って、目を開き、耳を澄ましていよう。必ず備えられている、脱出の道へと導かれる。

 

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信仰が試される試練の時は、忍耐が培われる時だ。順境の時は、自分で生きてしまう。頼らなくとも、生きて行けてしまうからだ。厳しい試練の中で、自らの無力を認め、主に拠り頼む事が出来る幸いを経験して行く。信仰が身につけられて行く。試練は必ず祝福とされる。

 

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係