「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」詩篇119:130

ある人が厳しい苦しい試練の中にいた時。気持ちはつらいばかりで、何をどうする事もできなかった。暗い穴に落ち込んだようだった。祈る事も、御言葉を読む事もできなかった。そんな真っ暗な日々が続いた中、ふと友人たちの手紙やハガキに目が留まった。それすらも全く読めないでいたのだが、不思議に手が伸びた。背後の人々の切なる執り成しのゆえだった。

 

様々な友人が、信仰の先輩が、励ましてくれていた。苦しい気持ちの中にも、有難いと思えた。その中に別人ながら、全く同じ御言葉が記されていて、目に留まった。ただ御言葉を眺めていたのだが、不思議にこれは、主が自分に与えてくれた言葉だと思えた。そこから主に向くことができ、やがて立ち上がって行く事ができた。別の人も、大きな問題が起きて、鬱症状にまでなってしまった。休息が必要で、何もできず仕事からも退いていた。やはり祈る事も聖書を読む事もできないでいた。ひたすら心身を休めていた。ずっと気力が湧かなかった。だいぶ日を経た時に、少しずつ回復が見えて来た。聖書を手取れて、読むというではなく、ただパラパラとぼんやりながめていた。

 

するとその中から、この事が益とされる事、この事を通して主の栄光が現されるという御言葉が臨んで来た。まさに光が射し込むようだった。その時、立ち上がる事ができた。やはり、背後に家族や周囲の人々の祈りが積まれていた。御言葉は霊であり、いのちであり、力だ。生きる力を与えてくれる。

 

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主の言葉には霊といのちと力がある。この世の言葉とは全く違う。何度も何度も、御言葉で立ち直らされた。命を持って迫って来た。又、御言葉により状況が解き明かされた。百人隊長のように「ただ、お言葉をいただかせて下さい」と御言葉を求めて祈ろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係