「ヨシュアは祭司たちに命じて言った。『契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい』」ヨシュア3:5  

 

約束の地カナンを目前にし、指導者ヨシュアは、ヨルダン川を渡り、約束の地へ行けと主に命じられた。水が、とうとうと岸いっぱいに溢れ流れる川だ。祭司たちは、ただ、ヨシュアの言葉だけが頼りであった。「足の裏が、水の中にとどまると、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる」と。

 

ヨシュアの指示通り、祭司たちは契約の箱をかついで、ヨルダン川に足を踏み入れた。それは丁度、春先の最も水かさが増える時期であり、自分の背丈よりも深い川に入って行こうとした。先に、川の水が、そのようになってから、渡るなら大変簡単だ。誰でも渡れる。しかし、まだ川の水が岸一杯に溢れている時に、足を水の中に入れる事は、決して簡単ではない。

 

そこには信仰が必要だ。語られた御言葉に従うことが信仰であり、信仰をもって一歩従う時、いつも主のみわざを見せられる。何も見えなくとも、一歩従う時に、確かにみわざが成されて行く。私たちは、見えない状況は非常に不安で、恐れる。少しでも見えたなら従えると思う。しかし見えたなら、信仰は要らない。

 

先にヨルダンの水がせき止められたのでなく、足を踏み入れた後に、せき止められた。この順序は重要だ。目で見てから従おうとするなら、一生従えない。あなたの目の前の一歩は、何だろう。示しがあるなら、御言葉だけを頼りに、何も見えない中で踏み出そう。主の大きなみわざを見ることになる。

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見えないところを踏み出すのが信仰とわかっていても、願うのは「少しだけ先を見せてください」だ。でも主が示されたからには必ず祝福される。信じて少しでも踏み出そう。 

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係