「イエスは、ご自分ではしようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6  

 

主は、ご自分では、しようとする事をすでに決めておられた上で、ピリポに「どこからパンを買って来ようか」と問いかけられた。するとピリポは「200デナリのパンでは足りない」と答えた。人間的、常識的判断だ。手元の金額と人々の入り用を計算すると「足りません」が答えだ。ところがアンデレは、何か食物を持っている者はいないかと、群衆の中を探し回った。

 

そして小さな弁当を持っている子供を見つけ連れて来た。それは五つのパンと二匹の魚であった。これは、あるいは、主が何かして下さるのでは、と思ったのか。「あるいは・・しかし、こんなに大勢では何になろう」主への期待と、しかし大勢過ぎて無理・・の思いが交錯する状態だった。

 

だが、主はこのアンデレの行き来するような信仰を用いて、この奇跡をされた。ここで学ぶ事ができる。「足りない」との判断は、自分を軸にした見方に立っている。それを自分軸でなく、主を軸にした視点に変える事が必要だ。時間が無い、能力が無い、費用が無い・・だからダメ、それはあくまでも自分の視点であり、しかし主はどうだろう。

 

自分には出来ないが、主には出来ないだろうか。人に出来ない事が主には出来る。まさに主はその信仰を求められていた。こんな微々たるものが何になろう、焼け石に水、役に立たないと思うだろうか。だがそれを主のもとに携えるなら、それを用いて、驚くべきみわざをして下さる。

----------------

すぐに自分の能力を見て判断してしまうが、主を見つめていくことが信仰だ。自分には出来ないが主から何か示されていないだろうか。主が働かれると信じ主に応答していこう。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係