「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた」ルカ7:13

夫を亡くした女性が出て来る。女手一つで子供を育て、大変な苦労だったであろう。一人息子がいて、唯一の支え、喜び、力、生きがいであった。青年となり、頼もしく思い、支えられていたであろう、そのたった一人の息子が亡くなってしまった。彼女にとって最愛の息子であり、命そのものであった息子を失ってしまった、その心の張り裂けるような悲しみ、嘆きはいかばかりだったろう。

 

泣いて泣いて泣き叫んでいたであろう。その悲しみを知る町の人たちが何とか慰めようと、大勢が彼女に付き添っていた。主はこの母親を見て、かわいそうに思われた。主は、その心をご存じであった。“かわいそうに思い”は、気の毒に思う程度ではなく、腹わた痛み、腹の底から揺さぶられほどの激しく強い思いだ。

 

「泣かなくてもよい」と、息子を生き返らせて下さった。主の深いあわれみだった。ここでは、母親が主に助けを求めたのではない、主の方から声をかけ、一方的に癒やされた。「かわいそうに思い」に突き動かされてであった。私たちにも、主のこのあわれみが向けられている。

 

悲嘆に暮れる時、主は、腹の底から激しくかわいそうに思っていて下さる。何という慰めだろう。ご自分の痛みとして感じ、深いあわれみをもって抱いて下さる。この主に心を向けて、心を開いて行く時、主は心を癒やして行って下さる。

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何かを失った悲しみや犯してしまった罪に悔いる心に主はいつも「泣かなくてよい」と寄り添ってくださる。主のあわれみは尽きない。この主のあわれみに今日も支えられている。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係