「イエスは彼に言われた。『あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。彼は言った。『主よ。私は信じます』」ヨハネ9:37 

預言によると、盲人の目が開かれる事は、メシア到来のしるしだった。「盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられ」、そのためこの盲人の開眼は、まさに預言の成就であり、心開かれていたなら、主イエスこそメシヤだとわかるはずだ。しかしパリサイ人はそうでなく、主が安息日を破ったと非難した。根が悪意であり、その目で見るなら、すべてが攻撃材料となる。

 

目を開かれた彼に問いただすのだが、彼の言葉にも全く聞く耳はない。率直に事実を話しているにかかわらず、全面否定してかかる。自分は正しいとの立場に立つ時、自分の思うようにしか、事態が見えなくなる。彼は、はっきりと的確に言った「盲目であったのに、今は見える」と。パリサイ人は自分の思いで、自分の目で見た。

 

「私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と。はなから決めつけ、そんな態度である以上、どんなみわざを見ても信じる事は無い。心が頑なだった。自らの思いを退けて、素直に主に向き合う事が大切だ。パリサイ人たちから追放された彼を、主の方から見つけ出された。この時、彼は初めて、主を見ることになる。

 

主はご自身を現され、そしてこの盲人は「主よ、私は信じます」と主を拝した。盲人は救いに導かれた。私たちも、素直に心開いて主に向くと、目が開かれて主が見えて行く。自分の思いを通す時、パリサイ人になり、主が見えなくなってしまう。御霊に心探って頂いて、自分の固い思いがあれば気づきを与えられ、主に向いて行こう。

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主が見せようとしておられる様に見たい。じっと主を見続けよう。これまでに経験した主の御わざ、与えられた祝福、恵みがある。主はいつも具体的にご自身を現してくださっていた。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係