「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」詩篇73:28

主を知るまでは、皆、心は、この世のものに支配され、又、見えるもので心を満たして来た。神無しで、見えるものしか無かったからだ。見えるものとは、富、地位、名誉や、目に見える人からのものだ。人から評価されたい、認められたい、賞賛されたい、良い人だと思われたい。神無しでは、それがすべてなので、一心にその事を求めて生きて来た。

 

絶えず人にどう思われるかが不安で、たまらない。嫌われていないか。それがこの世の心づかいだ。なぜ私たちは、富や人の評価を求めるのだろう。エデンの園で、罪を選び、神との交わりが閉ざされた結果、隠れ、恐れや不安に支配され、何かに頼らずには生きて行けない。そのため富にしがみつく。富が人生を保障してくれると錯覚する。富さえあれば大丈夫、何でも手に入り、夢が叶えられ、幸せになれると。

 

又、神との愛の交わりが断たれた結果、人からの愛を求めるようになった。人の好意、人の賞賛が欲しい。それにより心を満たそうとする。つまり心に穴があり虚しいので、人の愛、地位、名誉により、空いた心を埋めようとする。しかし問題の解決はそこには無く、それらを求めれば求めるほど、ますます心は渇き虚しくなる。その虚しさは神以外に何によっても埋められない。

 

信仰者にとっても同様で、この世を次々と求めてさまようのは、主により心が満たされていないからだと。だから空いた心を満たすために放浪する。しかしそこには何も無い。真に心が満たされたいなら、主のもとへ行き、主と交わる事だ。その交わりを密に深めて行くこと。その時、この世のものでない御霊の喜びや平安を経験する。そこに真の満たしがある。 

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サタンの誘惑があり、自分の内に肉があるので、心地良いものを求めて、方向違いへ向かってしまう。しかしそこに御霊の喜びは無い。主にとどまること、主との交わりで初めて平安と喜びに満たされる。しあわせは、神に近くいること、今、主との交わりが必要だろうか。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係