「悪魔は・・世界の国々を全部見せて・・『ですから、もしあなたが私 を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう』」ルカ4:7

 

 主を信じる人々がキリスト者であり、聖書を読み、祈り、教会に行く。だが一体自分は「何のために」信仰しているのだろう。少し立ち止まって考えてみる事は有益だ。自分の願う何かを得るための手段だろうか。この世の宗教にはよくある事だ。さい銭を投げ、ジャラ〃と大鈴を鳴らし、パンパンと柏手を打ち、あれこれ盛り沢山の願い事を告げる。

 

信仰が、もし何かを得るための手段なら、その欲しいものさえ手に入るなら、他の手段でもよい事になる。この世では、望みが叶わないので他の宗教へと渡り歩く姿を普通に目にする。悪魔は「私を拝むなら、この世の国々とその栄華を、何でも上げるよ」と巧妙な誘惑をしかけた。

 

「あなたのその欲しいものを上げる、私を拝めば」と。喉から手が出るほど欲しい物があれば、大きな誘惑となる。目的のものが欲しいばかりで、誰がくれようと構わない。しかし主には、御父を礼拝する事は手段でなく「目的」であった。

 

時に、問題解決の手段ための信仰だったりする。次々と襲い来る悩みや困難の解決が欲しい。又より良い人生や人格者になる事、心の満足や自己実現の手段とするなら、神が自分の思い通り、期待通りに動いてくれないなら、遅かれ早かれ失望する。神の愛を疑い、神から離れる事になる。

 

それらのものを神は御心なら与えて下さる。しかし肝心な事は、神を神として信じ、神を崇め、神を礼拝し、神との交わりを目的として生きるなら、どんな中でも平安と喜びを失う事は決してない。 

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「主よ、ああして下さい、こうして下さい、主よ、あっちへ行って下さい、こっちへ来て下さい」の祈りになりがちだ。主は御心なら叶えて下さる。しかし「主をおのれの喜びとせよ。心の願いを叶えて下さる」とあり、主ご自身を求めて行く事が大切だ。その時祈りが叶えられて行く。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係