「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したく ない悪を行っています」ローマ7:19

 

 律法とは、神の戒めだ。「偶像を造るな、拝むな」「御名をみだりに唱えるな」「安息日を覚えて聖とせよ」「父母を敬え・殺すな・盗むな・姦淫するな」等々。「神を愛し、隣人を愛せよ」「敵を愛せよ」「迫害する者のために祈れ」「復讐するな」「悪口を言うな」数え切れないほど様々ある。律法はすべて正しい。

 

しかし肉の私たちには、正しく良いものである事はわかるが、それを行う力が無い。パウロが言うように「貪るな」と言われると、罪の性質がむくむくと出て、返って貪りたくなる。律法により貪りが引き起こされる事になる。

 

ある人は植木鉢が余りに盗まれるので「植木鉢をとるな」と張り紙をした。すると更に次々と盗まれ、とうとう張り紙をはずした。「盗るな」と言われると、盗りたくなるのが罪の性質だ。「勉強しろ」「手伝え」と言われると反発する。肉には逆らう性質がある。 

 

救われた当初は、喜びで一杯だが、その内、信仰生活がつらくなって来る。窮屈でしんどくなるのだ。今まで感じなかった「罪」がわかって来る。なかなか祈れないし、聖書もそんなに読めるものでない。証しなど出来ない。段々色々と重荷になって来る。善をしたいとは思うが、実行する力が無い。どれだけ頑張っても出来ない、不可能だ。

 

自分の惨めさ、無力をとことん味わう。しかしそここそが恵みの場所だ。その時にこそ、真に神の恵みと力、救いを経験する。神にギブアップし、自分を渡す事だ。その時に、御霊によって歩むという事を知らされる。自分の力でなく、御霊が働かれ、一つ一つが成し遂げられて行く事を経験して行く。

 

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信仰生活は、戒めに従えない、どうやっても御言葉に従えない、愛せないし、どれだけ頑張っても赦せない、それがわかる事が入門であり、そこから始まると言われている。そのままを祈り、主と交わろう。御霊によって歩むことを教え、取り扱って下さる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係