「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」Ⅱコリント5:7

 

 アブラハムが75歳の時、神の「父の家を出て、わたしの示す地へ行け」に従い、カランを出てカナンの地に移り住んだ。神を信じる信仰により一歩を踏み出した。しかし子が無く、信頼できるしもべエリエゼルを相続人にと考えていた。が、神より、あなた自身から生まれ出る者が、跡継ぎとなると言われた。満天の星を見せられ子孫はこのようになると。

 

アブラハムは信じた。神はそれを彼の義と認められた。しかしその後ずっと子供はできなかった。そんな中、サラの提案により、女奴隷により子を得ることとし、奴隷ハガルによりイシマエルを得た。86歳だった。だがそれは肉の思い、肉の行為であった。その後も、約束はあるが状況的には何一つ動かず、何も見えない歳月が続いた。

 

苦しい忍耐の時であった。それから13年後、99歳の時に、主が再び彼に現れ、子孫を与えると語られた。そして100歳になった時にとうとう主の約束が成就し、イサクを得た。常識的にはもう不可能な状況の中で、アブラハムは見えるところでなく、主ご自身を信じた。望みえない時に、望みを抱いて信じた。見えないものを信じるから信仰だ。

 

それは厳しい状況を見るのでなく、約束して下さった主と、主の言葉を見続ける信仰だった。あなたも今、厳しい状況だろうか。「サラの胎の死んでいることを認めても」、なおも主の言葉に立てるよう祈ろう。主は真実なお方、主の言葉は必ず実現する。

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見えるものは一時的で、見えないものはいつまでも続く。目の前の事に翻弄され、また頼りたくなるが与えられた御霊によって慰めと励ましを受けとろう。いつも心強い。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係