「私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。私 の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私の からだも」詩篇31:9

 

 主は、全面包囲された町の中で、奇しいみわざをされる。信仰人生で、行き詰まってしまい、八方塞がり、前進も後退も出来ない窮状に陥る事がある。すべての面は塞がってるが、上である天は開いている。私たちの窮地は神のチャンスだ。どうにも出来ない、なすすべが無い中でこそ、生きて働かれる主に出会う。

 

問題なく順調な時は、私たちはどうしても自分の力と思いで歩んでしまう。神に頼る必要が無いからだ。自分で生きて行ける。「あなたがたが神のようになり・・」がエデンの園での悪魔の誘惑だった。自分が神になりたい。自分が主導権を握り、誰にも邪魔されず自分の思い通りに歩みたい。

 

しかし自分の力で、どうにもならない窮地に陥った時に、私たちは神を求め、神にすがる。どうにも出来ないからだ。なすすべない状況こそが、実は最大の恵みだ。「私をあわれんで下さい。私には苦しみがある」「死人のように壊れた器のようになった」と苦難の中にいたダビデが、祈りの後には「しかし主よ。あなたに信頼しています」「ほむべきかな、主」と主への賛美に変わっている。

 

どん底でダビデが主に頼り、主にすがった結果だ。苦しみは私たちを主に近づけてくれる。順境で、神が必要無く、神から離れた歩みをしていて、それすら気づかない。「私をあわれんで下さい」、あわれみとは、私たちの惨状を受け止めて下さる神の愛だ。どんな惨めな状態でも、主のあわれみは尽きず、あわれみを求める事ができる。

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順調な人生だけなら決して主を求めずひとりで好き勝手に歩んでいるだろう。行き詰まって立ち止まらせたのは主だったと今は言える。近くいてくださる主に祈り叫ぼう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係