「・・なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ 6:45

 

 こんな御言葉がある。「死と生は舌に支配され、どちらかを愛して、その実を食べる」私たちは単純に善を愛して、悪を憎んでいると思っている。悪を憎んでいるのだが、まだ罪の性質があるため、罪にはまってしまう事で悩んでいると。しかし御言葉によると、死を愛する心があると言っている。罪を本当は憎んでいるのではなく、愛していると。

 

例えば、自分を傷けた相手、又、自分に敵対し、中傷する相手を憎んでしまう。憎むのは、自分が苦しいし、つらい。しかしながら憎しみは募る。だが心の底の底を探られると、憎みたくないのではなく、強烈に憎んでいたい。赦せないのでなく、赦したくない自分がいる。どうしようもない自分に、自我に、行き着く。古い罪の性質がある。

 

だがそんな時こそ、主の十字架、主の流された血潮が、頭ではなく、現実味をもって迫って来る。まさにこのために、この自分のために、主は裂かれて、血を流されて苦しまれたのだと。自分の罪が見えて十字架の赦しがわかる。そして舌は死と生を支配すると。言葉は種であり、蒔いた結果「その実を食べる」。

 

恵みの言葉は恵みの実を、悪い言葉は悪い実を結ぶ。死か命の実を結んでしまう。否定的、批判的、懐疑的な言葉の種を蒔くか、肯定的、建設的、信仰的な言葉の種を蒔くか、日常で語る言葉は大変重要だ。日々どんな言葉を口から出しているだろう。内側が御霊に支配される事を求め、発する言葉が御霊に導かれるよう祈っていよう。

 

・・・・・・・・・・

口は心に満ちているものを話すので、不満、愚痴、怒りがあれば必ず肉の言葉が出てしまう。主とよく交わり、心の内を主に聞いて頂いて、心を御霊に導いて頂こう。「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください」と祈っていよう。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係