「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」詩篇34:18

 

 ある信仰者が言った「私は10年ほど特別な集会の度に教会へ足を運んでいました。教会や聖書は嫌でなく抵抗も無く、聖書のお話も聞いていました。でも、幾ら聞いてもわからないというか、全然理解できなかったです。今思えば、自分の価値観を固く持ち、決して放さず、その上で聞くので意味がわからなかった。

 

でも嫌ではなく集っていました。信じる事が出来たのは試練が来たからです。自分ではどうにも出来ない苦しい問題にぶち当たりました。瀬戸際で心底助けが欲しくて、その時に初めて目が開かれました。自分の無力を知る時に、心を開いて素直に聞けるんですねえ。ビンビン御言葉が響いて入って来て。ほんとに自分が砕かれないと、御言葉や神様の事はわからないですねえ」。

 

人は、御言葉を聞く時に、この世の価値観をもって理解しようとする。だから「そんな事、到底信じられない」「そんな事を言ってたら、現実世界では生きて行けない」「御言葉はそう言っても、むしろ真逆だと思う」「弱さが恵みなど有り得ない、強くならないと」「自分が頑張らないと誰がやる」「委ねるなどと、そんな事をしたら、何もかもだめになってしまう」・・。

 

世の価値観、自分の思いが強く、御言葉が入らない。意識はしていないが、御言葉をシャットアウトしてしまう事になる。それが自分の無力を知る時に、不思議に心が開かれ、心に入って来る。そして振り返ると、主に出会えて、一番近かったのが、あの苦しみの時、となる。

 

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試練の時には、御言葉がビンビン心に響き、心にしみ入る。御言葉が食物となり、御言葉によって生きる事を身をもって知り、経験する。心砕かれる時、主がわかる。主が近い。砕きは非常に痛いが、大きな祝福の時だ。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係