「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」マタイ28:20

 

 御使いが「あなたがたのために救い主が生まれた」と素晴らしい喜びの知らせ伝えた。そしてその名はインマヌエル(神は、私たちと共におられる)と呼ばれると。信仰生活の中で、どういう事が救いなのだろう。けがや病気をしない事だろうか。又、病気が治る事だろうか。病気の癒やしは、それは確かに救われる事であり、嬉しい、有難い事だ。

 

しかし病気は治っても、又、次々と病気は経験するし、すべての病が完全に治るのでもない事も現実だ。パウロも強い願いにかかわらず、とげは取られなかった。又、経済的困窮の中で、必要が満たされる事は救いだ。しかしパウロは豊かさと同様に、貧しさの中にいる道も知っていた。ある時、御心なら貧しさも通される。

 

様々な悩みの状況はどうだろう。その状況が取り去られる事が救いだろうか。ある人は突然の病を得て、身動き取れずベッドに伏せったままの日々だった。治療を受け、養生し、祈りに祈るが、一向に回復の兆しが見えない。どうしたものかと更に祈り続けた。主には不可能は一つも無いではないか、癒やす事がお出来になる。しかし良くならない。

 

なおも状況が変わらない中、ひたすら祈りを重ね、とうとう「すべてを明け渡します。もし一生このままでいる事が主の栄光を現すのであれば、それでOKです」とすべてを明け渡す事ができた。その後不思議に回復して行った。しかしその時に、どんな中でも「主が共におられる」事、インマヌエル、それこそが真の救いだと悟らされた。

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主はこの世の暗闇に光として来られた。この光を見つめて歩もう。まわりの環境も自分の中にも依然として多くの闇があるが、主は共におられる。それを覚えるとき何も恐れない主の平安と力が来る。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係