「・・わたしたちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、 私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではあ りませんか」ヘブル12:1

 

 マラソン競技を走り抜くために、登山用の重い荷物を背負っていたらどうだろう。そんな競技者はいない。スポーツ着も靴も、レースのために出来るだけ軽装にするだろう。私たちも信仰人生を走るために、重荷があれば走れないと言っている。重荷とは、様々な思い煩いや心配事、不安でたまらない事柄だ。

 

それは目の前に起きている事態だけでなく、過去の事、将来に関する事に対してもだ。どうにも出来ない過去の事を、あの時ああすれば、この時こうしていたらと、くよくよと思い煩う。まだ起きていない先の事を、ああなれば、こうなればどうしようと不安で不安でたまらない。最悪のシナリオを描いて、落ち込んでしまう。

 

思い煩いは、信仰を大きく損なってしまう。思い煩いを捨てる必要がある。持ったままでは信仰によって歩めない。「何もいっさい思い煩うな」と言われている。一つ一つを主に告げて、主に任せよと。又、まつわりつく罪がある。前に走ろうとすると、足にまつわりついて走れない。誰かへの赦せない思い、憎しみ、妬み、富への執着、名誉、地位、人からの賞賛への欲、主から離そうとするまつわりつくものは何だろう。

 

「まつわりつく罪を捨てて」とあり、絶えずからみついて来る、薄々気づいている捨てるべきものを、祈りに持って行こう。自分では出来ない事が、主には出来る。私たちを、主は取り扱い、捨てる事ができるように助けて下さる。その時、信仰に前進して行ける。

 

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どれも、自分では捨てる事ができない。自我は執着する。しかし今のままではいたくない、信仰に進みたいとの意志を主に向ける時に、主は取り扱い、主が重荷とまとわりつく罪を捨てさせて下さる。(★新年おめでとうございます。年末には沢山のお励ましメールを感謝します。本年も祈りを込めて配信させて頂きます。どうぞよろしくお願いします。祝福をお祈りしています)

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係