「いばらの中に種を蒔かれるとは・・みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐ…」マルコ4:19

 

 主に出会うまでは、私たちは見えるものによって生きて来た。この世の見えるものに支配され、見えるもので心を満たして来た。見えるものがすべてであり、それしか無かったからだ。見えるものとは、富や名声、人から来る外側のものだ。人から評価されたい、認められたい、賞賛されたい、人に良く思われたい、愛されたい。それがすべてなので、一心にその事を求めて生きて来た。

 

絶えず人にどう思われるかが不安でたまらず、恐れとなる。それがいばらの中に蒔かれた種の事で、この世の心づかいだ。なぜ私たちは、富や人からの評価で心を満たすのだろう。罪により、神との交わりが遮断された結果、不安でたまらず、見えるものにしがみつくようになった。

 

多くの人は富にしがみつく。富が一生を保障してくれ、富が夢を叶えてくれ、幸せにしてくれると錯覚するからだ。又、人の愛にしがみつく。人の好意、賞賛を求め、それにより心を満たそうとする。「世の心づかいや、富の惑わし・・がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません」と。

 

御言葉が根づかないのは、世の心づかいと富の惑わしが、御言葉をふさいでしまうからだと言っている。富や、人から良く見られる事により、安心を得ようとしていないだろうか。それは違っている。安心が来るのは、主の愛からだ。何があっても、どんな時も変わらずに愛して下さっている、神の不変の愛による。

 

いばらの価値観に気づく事から、大きな祝福が始まる。主は取り扱い、それを除き、豊かな実を結ぶように助けて下さる。

 

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主を知る前は、目に見えるところでしか、自分を量れないので、人との比較、差異で量るしか方法が無かった。しかし救われた後も、培われた根深い価値観が残っている。「わたしの目には高価で尊い」と無条件で愛して下さっている主に、絶えず目を向けていよう。

 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係