「ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません」 Ⅰテサロニケ2:5

 

 パウロは「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。人を喜ばせようとしてでなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語る」と言った。そしてへつらいの言葉を用いたり、貪りの口実を設けたりした事は無いと。偽預言者が人々を導いて行くのは、何らかの自分たちの利得のためだ。

 

それが貪りであり、そのためにへつらいの言葉を用いる。へつらいとは、神を喜ばせるのではなく、人を喜ばせる事であり、そのために語る言葉だ。人に心地良い言葉であり、人に都合の良い、聞こえの良い言葉だ。誰しも、痛い、辛口の言葉は聞きたくない。心を刺される言葉は拒否したい。罪を指摘される言葉、自分の見たくない、認めたくない部分を突かれる言葉だ。

 

しかしそこが主によって対処されてこそ、御霊の実である、御霊の喜びや平安を得られる。それは真の平安だ。そして成長して行ける。私たちの日常生活はどうだろう。一つ一つの行為の動機はどうだろう。主を喜ばせようとするためだろうか。それとも自分の利得のためだろうか。

 

又、良い人に見られたいがために、人の歓心を得ようとしているだろうか。それはへつらいだ。肉によるものなら、肉の実を結んでしまう。そこには秩序の乱れや妬み、偽り、疑いが生じてしまう。主を喜ばせようとする時、秩序、喜び、平安の御霊の実を結んで行く。

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目の前の人だけを見ていくと単なる同情心や話の流れの勢いで右往左往させられる。落ち着いて主に祈り、主は何を語られるかと尋ねていこう。隠れた動機を主に示してもらおう。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係