「しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった」詩篇73:2

 

詩篇記者は、悪者が富を増し、安らかそうであり、栄えるのを見て落ち込んだ。彼らは楽しそうで、豊かで肥え太っていて、あぶらぎっていて、何の苦しみも無さそうだ。それに引き換え、神を信じている自分は惨めで、苦しみばかりで、何の良い事もない。この足はたわみそうで、歩みは滑るばかりだと。これはどういう事なのか。なぜ神を信じない者が楽しそうで栄えるのかと。

 

だが、そんな事を思うのは「誇り高ぶる者を妬んだ」自らの妬みから来ていた。そしてその妬みは、人と比較しているから起きるのであり、主を見上げるのではなく、主から目を離して人を見ていた。信仰生活で、平安や喜びが失せるのは、状況の問題ではなく、目が主以外のものを見ているからだ。それが心を占めている。

 

その底には、富への欲望、人からの賞賛を求め、それを愛する心がある。それが羨望となって出る。それは、主に焦点が合っておらず、ずれているので、その結果、様々な不満や愚痴、イラ立ちでいっぱいになる。喜びがなく虚しい。しかし彼は聖所に入った時に、光が臨んだ。心荒み、悶々状態の原因は、目の前の状況ではなく、神と自分の関係にある事を悟った。神から離れているから、喜びと平安が無いのだと。

 

今、平安が無いなら、目の前に問題があるからと思うかも知れないが、それは関係無い。心が主以外に向いていないか。逆にどんな困難な中でも、主との親しい交わりにいるなら、心は不思議な平安に守られる。主を信頼しているからだ。

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人を見て羨むのは何に刺激されているのだろう。いつまでも弱く満足できない自分に見えても、主は右の手をしっかりとつかんでおられる。既に主に守られている事実に、いつも感謝をささげよう。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係